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平和を「創る」ことについて。

火曜日にブリュッセルで同時テロがあった三日後の今日、何か書いてみること自体とても難しいのですが、

本当は火曜日の朝、ブログを書く予定にしていたのです。

火曜日の朝練に行ってからブログをアップしようと、内容についても考えてありました。

週末に、「小さき声のカノン」という日本映画を観る機会があって、鎌中ひとみ監督や、その仏語字幕制作に関わった中学の同級生にもお会いできたことを、ぜひブログにまとめてみたいと思っていました。

火曜日の朝ごはんを準備したけれど食欲がなくて朝練に行きたくないなあ、と少しぐずぐずしながら、出かける時にいつも猫のためにつけておくラジオを小さな音でつけたとたん、クラシック音楽専門番組なのに、

「ザヴェンテムで爆発があった模様」

という声が聞こえ、すぐにパソコンをつけてみたらいろいろまだ不明でありながらとんでもないことが起こってしまったことがわかりました。すぐに娘に電話したのですが、携帯がつながらず、焦りましたが、まあ少なくともザヴェンテム空港には行っていないからと思っていると、娘のヴァイオリンの先生が空港にちょうどいたことがフェイスブックでわかり、そうこうしているうちに地下鉄でも爆発が起こってしまったのでした。その頃娘は「携帯メッセージしか送れなくなっている」と言いながら家に帰ってきたので、安堵しつつ、「ああ、きょうは練習も仕事も勉強も行けない、家で一緒に固まっていよう」と思いました。

お弁当用に下ごしらえしたため細切れになっているお惣菜を3人でお昼ごはんには食べて、火曜日と思えないぐらい静かな通りを警察の集団が通る音、すぐとなりの大病院の救急車のサイレン、裁判所の上を旋回するヘリコプターの羽音を聞いていると、「普通の日常の雑音」がこんなに恋しいなんて、と感じるのでした。

とにかく、当日は夕方まで詳しい情報はなく、切れ切れに被害者の数が上がっていくことが伝わってくるのですが、日本の家族とスカイプしてスカイプ越しに見せてもらった日本のテレビ画像が、

「まるで、別の国のニュースをみているみたいだ」

と思わされました(ベルギーの自宅にはテレビがないので)。

ブリュッセルに住んでいる人は、「ああ、ついにこんなことが起こってしまったか」という、青天の霹靂ではないタイプの悲しい驚きがあったと思います。

娘の小中高時代を通して、移民の人の子供たち(ベルギー生まれなので、国籍はベルギー人)も友達だったし、イスラム教を信仰する普通のモロッコ人、アラブ人、アフリカ人の人たちとも街で一緒に暮らしているし、「移民」とは言えないまでもわたし(や、ほかのいろいろな生まれた国が違う人々)だって外国人だし、ブリュッセルでは、

「外国人がベルギーを憎んでテロを起こしている!」

という構図が、「はて?それはなんのことでしょう」

というぐらい空虚なもの。

たまたま「小さき声のカノン」の上映会で出会った日本の方から、原発政治関連の話題で「ヨーロッパ独特の『お人好し』さ(naïveté)ってあるよね」という発言があったのですが、そのとき内心「それってイエス様的なnaïvetéでもあるな」と感じ、数日間考えていたのですが、もしかしたらヨーロッパがそのような土壌だから、イエス様の言葉のそういう部分がよりよく受け入れられた可能性もあるのではないか、という考えが生まれました。

天災、事故などの悲惨なことが起きたとき、『神は死んだ』とか『神はもう存在しない』というような強いメッセージをSNSで表現しているヨーロッパ人はたくさんいます。そのぐらい「神の存在」って大きいんだなあ、日本にいたら、神ってそういうとき出てこない、「責任者」という意味で使われないのではないか?神というのは日本では「人がなれるぐらいの多面的な存在(すごい人のことを「神か?」とか、「天使か?」とか)」。

反面、ヨーロッパで「神は死んだ」というとき、死んだり生きたりするのだからやはり人間ぐらいの存在だとも読み取れますが、ただこの場合の「神は死んだ」はニーチェのことばなので、「神を否定する」というおきまりの表現ではあります。いつも印象的なのは、教会にはいかないし、聖書も読まなそうなタイプの友達に限って「神様なんていない」とわざわざ神様を引き合いに出してくることでしたが、今回のテロでは誰も神様を引き合いに出さないし、イスラム憎し、みたいなことを軽々しく言う人はいない。


何故でしょうね。


宗教、実は関係ないんじゃないでしょうか?

原発問題と同じように、

関係あるのは利権問題と貧困問題だけなのではないでしょうか。

そこにはベルギーも多大な責任があるからこそ、ここでもそういうことが起きた。

そういうことが、亡くなられた方たちへの追悼の時間が過ぎたら「とうとう真正面から」話されるときが来なければいけない。


全部、繋がっている。


という、村上春樹のダンスダンスダンス的なフレーズが、頭に浮かぶのでした。

つまり、わたしにも責任がある、ってことです。

全部、手の中に持っておくことはできないのだと思う。
何かをみんなで少しずつ手放して初めて得られるものが、どんな大きなものなのか、想像しなくちゃいけない。
そういうタイプの平和は歴史的に見て「創られた」ことがないはずだから、想像がつかないけれど。

今までの平和は「良い」独裁者によって作られたものなので…
(そこにはキリスト教会など、宗教も含む)
でもこちらにとっての良い独裁者はあちらにとっての悪い独裁者。
現代では「独裁者」を支持することがまちがっていることは「歴史に学んだ」はず。


戦後、民主主義によって独裁ではない平和のあり方を模索するシステムを作ったにもかかわらず、
勧善懲悪的なハリウッド的なお子様的な「ひとりのヒーローがみんなを救ってくれる」ということへの憧れを
どうしても手放せない自分たち…(この文章は追記です)


さて。こんなに悲しい気持ちをどうしていいかわからないのだから、本当の平和について、本気で考えることにします。

イエス様ははっきり言ってnaïfなんかじゃなかったし。ヨーロッパがnaïfなのであるならば(デモクラシーを信じていることを含めて)naïfのまま、「怖いから見ない」方面ではなくて「見たくないこと」も素直に見る方面に行くのがいい。(この文章も追記です〜)

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日常…
習慣づけというのは日常を維持できるからこそできる。
そんなあたりまえのことを痛感しています。
それでもダンスを続けなければ。
祈り続けなければ。
そして愛し続けなければ。
それも習慣。
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