「礼拝と音楽」第162号

お知らせするのが遅くなってしまいましたが、7月に

「記事書き。」

というブログ記事で書いていた記事(!?)が、


「礼拝と音楽」2014年夏号


でお読みいただけます〜!



教会に関係していない方たちのためにひとこと説明すると、



イエスが、十字架にかかる前夜に、弟子たちと一緒に食事をして(ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のシーンのことです)、「いつものように」パンを全員に分けながら感謝の祈りを言う時に、「いつもとちがう言い方」で、

「このパンは、私の体だということを、これからも食べるときにはいつもちゃんと忘れないように」

と言い、

「このワインは、私の血だということも、これからも飲む時にはいつもちゃんと忘れないように」


と言ったのでした。

キリスト教会ではミサや礼拝の中でこれを「儀式化」して、
必ず必ずそのことを「思い出す」ことになっています。
(2000年も経っているのに!すごい)


カトリック教会では、1時間あるミサの前半が聖書と説教で、後半が全部この「パンとワイン」の時間になります。


私が今弾いている教会はカトリックで、ベルギーのブリュッセルの仏語と蘭語と2つのコミュニティーで、繰り返し繰り返し、この時間をオルガンで奏楽してきた体験を踏まえて、教会と音楽の歴史のような視点から書いた記事です。

この教会で、私は1995年から、夫と交代で月半々ずつ弾いているので、週に3回同じミサがある(土曜は2回、日曜は1回)として、


単純計算で月6回x12x20年=1440回(実際は、ほかのミサはあるし、これより多く弾いているのですが)、


「全く同じ『パンとワイン』の時間」


を同じ教会で弾いたという事になります。


ところが、毎回「模索」しながら弾いているのです。


今回、この「礼拝と音楽」の記事を書いた事で、なぜそんなに難しいのか自分でも少し納得できました。


第一に、この時間は、人間=自分に直面する時間にもなっているからです。


イエスとその晩一緒にいた人たちは、

「えっなんでそんなことを言うのか!これからごはんなのに」と思ったかもしれないし

「そんなことを言わないでほしい…もう会えなくなってしまうなんて信じたくない」

「大丈夫だよきっと」

という気分になったにちがいない、とても現実的で残酷なことを、イエスはアナウンスしている。


ところが十字架の3日後に復活したということがなかったらキリスト教は存在しないというわけで…
ここは抜きにはできない箇所。



要するに「どんなに人間は残酷か」ということが思い出される時間なのだ!




式の中でも、緊迫しているというか、ひとことで言うと音楽が「余ったり」「はみ出したり」する余地は無く、


流れにぴったりはまるように毎回ととのえながら弾いて行きます。



(…ぜんぜんひとことで収まっていないですね、この説明…)



難しい中、どうやって毎週違うオルガン作品を選択するのかという、実用面を考察する内容に焦点を絞って書いてみたのは、


「えーそんなの何も考えないで弾いてるなあ〜」


という声が周りには多いわりに、「その何も考えずに」のところを、ベルギーやフランスの地元カトリック教会オルガニストたちはいい感じに奏楽しているので、


「なんだろうこれは!どういう根拠でこうなっているのだろうか」と思い、一生懸命言語化してみたのでした。


これも紙の上で、文字で表現しなければならなかったからこそ。


もし、その場で(講習会などで)顔を合わせながら伝え合うことができるシチュエーションだったら、


「えーと、こんなかんじの曲とか、こんな感じの雰囲気とか〜」


などと文字にしてみたら全く意味の通じないような表現で充分伝達した気になってしまったりしそうなところでした。



…というか、音楽のレッスンって、
そういう「なんじゃらほい」なことを伝えることに費やされているのですが…




というわけで、「主の晩餐」、オルガン実用的な私の記事は横に置いておいたとして、
読みでのある記事が満載の号なので、興味のある方は是非手に取ってみて下さいね。


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