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週末の雑感

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この2週間は夫や友人のオルガンコンサートのアシスタントをしつつ(練習も同行するため時間がかかる)自分の演奏会の準備もしつつ、ランディドルグが、ロレ・オルガンの修復以来15回目の5月を迎えたお祝いの準備をし、依頼された書き物の〆切があり、と、順番に考えて片付けるべき事項が日記帳からはみ出すような状態だったため、ブログはお休みしていました。

普段、週日5日はブログを書きたい、という目標を持ってやっている中で、「ブログはお休みしよう」と決めると、生活に余裕ができる気がするのもブログ書きの効用?!

それに、「これはどうやって書くのか全くわからない」という複雑な事柄が続くと、それをいつかは書けるのだろうかと思いつつ、ブログを書かなくて良いという事は、当面は書かなくていいという事だからほっとしたり。

それならブログなんか書かない方がいいのかな?!という気もしますが、結局は書く事の出来る日は何かを乗り越えた日なのだということもできます。たとえ、その、乗り越えた内容について書くのではないにしても。

ながなが前置きしている場合ではなくて、

この日曜日には大きなリサイタルがあるのでその準備をしています。デュルフレのフーガを再び新しい見方で解釈し直すことができた、というよりも、もともとそうしたいと思っていた方向に、より近づく事ができた、とても実りのある練習の期間を過ごすことができています。この作品はなかなか難曲であることに加え、鎮魂の曲でもあり、心身共に非常にパワーの必要な作品です。

いろいろあって、その中で深く考える事が出来たお陰なのかもしれないけれど、とにかく一番最悪だったのは、この週末の各選挙に向かう不安定な日々(新聞記事の内容を毎日読むのだけでもタイヘンな、…)の中で、選挙前日の土曜日の夕方、自宅からサブロン広場へ向かうミニム通りのユダヤ博物館で発砲事件があったこと。

入り口付近でイスラエル人夫婦と、若いフランス人女性が犠牲になり、博物館勤めの若いベルギー人男性が危篤という事態に。

その日、市内ではジャズ・マラソンが行われており、サブロン広場も戸外で音楽の演奏があったらしく、銃声はほとんど誰も聞いた人がいなかったそうです(博物館の隣の店の人にすら、何も聞こえなかったという証言が)。広場には著名な政治家もふたりいましたが、彼らもパトカーの音を聞いて気がついたということ。

次の日からビデオに録画された犯人の様子や似顔絵なども流通していますが、その画像を見た人は、子供ですら
「これはプロの仕事でしょう。」
と一目で思わされるものがあります。

今日、水曜日になっていくつかのヘブライ語新聞が仏語訳されて出回っているらしい情報の中には、犠牲になったイスラエル人の夫妻がスパイだったという説まであります。

私は日曜日の夜、ブリュッセルが戦火に燃えている夢を見ました。
まるで、土曜日の事件が戦争の始まりであったかのように。
そして、日曜日の選挙では国のレベルでもヨーロッパのレベルでも国粋主義的な政党が躍進しました。
ブリュッセルのレベルではまだまだ良識の範囲での結果が得られたようではあります(この集計がまた遅くって…一体どうなっているんだ…投票システムの機械が古すぎ)。ベルギーは投票が義務のため、90%の国民が投票したということですが、今回投票率40%の隣国フランスの結果を見ると、恐ろしいような気持ちになります。

そんな中で、娘たちの世代の子たちまで、会話は政治、政治…

無関心になるよりは遥かに良いのですが、さすがのベルギー人も、かなり切迫せざるを得ない政治状況である、ということか。

ちょうど、100年前の今頃は…第一次世界大戦の始まりの年。

本当にいつか来た道、

「殺し合いのけんかをする条件」

をみんなで満たしつつあるのでなければ良いのだけれど、と思うのでした。

それにしても、土曜日の襲撃事件では、被害者が政治的スパイで、加害者がプロの「殺し屋」なら、一見私たちは関係ないから安心、のような気もしてしまいそうですが、全然安心じゃないでしょう?!と私は言いたい。

・テロ行為(もしスパイ殺人説が正しければ、厳密にはそれはテロ行為ではないが)があるということは、いつでも誰でも被害に合う可能性があるから、安心して街を歩けなくなる。
・私自身も含めて、外国人はベルギー人に含まれないから、国粋主義的ムーブメントからすればいつでも排他され、被害者になりうる。

などと自分に引き寄せて考えて「怖いと思う」ことも、一見、ごく普通のようでいて、実は安易な心理効果で、本質からは外れているのかもしれません。

「殺してはならない」という一番基礎のところにある基本的人権は、不思議な事に、一度踏みにじられたらどんどんいくらでも踏みにじられて行く。

殺さなかったら殺される、そういう連鎖が正当化されて行く。

どこでされて行くかと言うと、「人の頭の中」で。

私たちが生活しているすぐそこを歩いていた人が、銃殺されて良い理由などあるわけがないのに、
「スパイかもしれない人たちが」「プロの殺し屋かもしれない人に」銃殺されたのなら

「わかる。」

というリアクション、それ自体が、無茶苦茶じゃないでしょうか!

そのようなことは、漫画とか、映画とか、小説に、たっぷり書かれています。
まるで、世の中はそれなしでは解決出来ないのだ、という、呪いをかけられているかのような気分がします。

週末の雑感、というタイトルにしたのは、本当に、これがただの雑感でありつづけてくれることを願って止まないからです。

7月の礼拝と音楽という雑誌に寄稿するための、聖餐式で用いるオルガン作品についての記事を書いているので、夫とも喋っていたら「ユーカリスティの語源」を教えてもらいました。それは「恩恵に感謝する行為」という単語から来ているそうです。その流れで、「犠牲」という話になり。

私は旧約聖書を毎日5章づつ最初から読み崩して行っているため、今読んでいる申命記にも、しつこく「焼く為の犠牲は、雄牛何頭」とか、「捧げる為の犠牲は若い雄牛なら何頭、羊なら何頭」とか、出てきます。

「犠牲ってことは、つまり、まず恩恵を受けた、ということに対する、代償なわけだよね?!」

結局は「良い事」(=豊作とかもあるけれど、結局は普通に毎日が幸せに過ごせるということ)に感謝するために捧げものをするということがベースにあったのを、旧約の最初では人身御供がなくなり(イサクの代わりに動物を捧げた)、新約ではキリストが「生き物」の犠牲の最後になった。いまでは歌い、声を上げて、感謝する事がユーカリスティになり、そこで「キリストが神の子羊になったことを思い出すという行為」を、くりかえすことで、

「もう犠牲者は出さない」

というのが、キリスト教の神髄であるはずなのです。

キリストの復活以降も政治的にキリスト教会は利用されつつ、人類の歴史では殺戮、戦争があとを立たなかったけれど、ふたつの大戦のあと、少なくとも私たちは「学んだ」のではなかったか?
でもまだまだ学びが浅い…


と、いうようなことを、考えつつ、鎮魂のフーガをさらう…。

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習慣付け…
日記帳を見ると、5時台、6時台、7時台、とばらつきはありますが、演奏会で弾く日の7時台は必要なので、まあまあ早起き出来ています。一度10時半に就寝出来た日があって、次の日、肌が普段より調子良かったので、驚きました。本当に早寝効果ってあるみたい?!ランニングが5月はゼロでしたが、6月は、走りたい。



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