美の問題

「あこがれの美人像」について書いたときには、チェックリストを埋めて行くことで、

普段考えたこともない切り口で自分を客観視する面白さ

がまず楽しいと思ったのですが、

「美ってどこからくるのか」

とか、

「女性が美しいことと男性が美しいことは違うことか」

「寺山修司の『幸福論』にも出て来る『肉体美・肉体善』の関連で考えると、人の中で美と善は共存するのか」

「けっきょく幸福のなかに含むべき美なのではないか」

などいろいろ考えが広がって行くのでした。


美人について、普通人が(映画評論家とかじゃない人が)自分との関連でブログを書けるぐらい「美人」の価値は凋落したのだし、「美人」の付加価値も削り取られた。美人は雲の上の存在ではなくなった、ということで、「あ、きれい」と思ったらすぐに「美人!」と、ひとは口にする。

ただ、美しいということは「羊が大きい」と書く(よく言われることですが…)。

その羊が本当に大きな価値を持っているかどうかということは、羊の専門家か、羊を良く知る人にしかわからない。

だから、ちらっと見て「カワイ〜」と思ったぐらいで、美人、と口にするような気軽な単語じゃないのかも、と疑いたくなる感情も、なぜかあります。

たま〜に「美人」(に写ってる)と写真のことを言ってもらう時、大げさな感じがして、どきん、とします。複雑な感情になります。そんなこと言われたくないと思うようなときだと(たとえば演奏の話をしたいとき)、見かけについて、面と向かって言われることは、やはり暴力的な要素があるようにさえ感じるのでした。

目上の人には「美人ですね」とは言いにくいことを思うと、結局のところ「美人」には「上から目線」な音色がある。
値踏み的な?「素敵ですね」にはそうした上下関係はないのに。

でも、それは美人ということばのせいではなくて、
1。「勝手に」評価して決めつけるという楽しみ
2。良いことなんだから「遠慮なく」言っちゃう

という、付随する態度が、問題なのかもしれませんけれど。

女性が他の女性のことを美人かどうか言うとき、自分を棚に上げて喋れば、大それた態度になり、自分を棚から下ろして自分はそんなに美人ではないが、でも美人についての話をすることで自分も美人になろうとするとき、…


美人美人、と一体何度書いているんだ私は!


こうして、「美人」と言う言葉はどんどん使い古されていく…

うん、私もだんだんこの言葉、慣れて来たかも。


またまた音楽の話になってしまいますが、音楽を聴いているとき、激しく耳を使っているせいか、人の表情は独特のものになります。激しく目を使っているとき、目をこらしているようなときの顔とは違います。

「他人の話を聞こうとするときの、心を開いている顔」

にちょっと似ているような。(心だけでなく何故か口が開いちゃてる人もいます)

演奏会のあとお客さんたちがみんな美人になっています。
男性は美男になっている。
最近ひとつ気づいたのですが、美男美女と別々に呼ぶのが不自然なぐらい、男女が同じ雰囲気の美しい顔つきになっている。

クラシックのコンサートだけでなく、ロックでも何でも、「いい演奏会」には共通の「人間の尊厳」みたいな空気が漂っているんです…人間の尊厳について、私は何もわかっちゃいないのだが、…そんなとき、男女どっちも、美男美女の要素をはっきり顔面に浮かべている。

それは、理想に向かうからこそ葛藤したり不満だったりという日常の、様々な、醜いというか人間的な表情が浄化されたような美しさで、生まれたての赤ちゃんの美しさとはまた違う。

表面を整えることで手に入る美しさは良い商売になるから、ここまで「美人論」が興隆しているのかもしれないけれど、美醜について考えることは、かなり深い。

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お庭…
おととしの秋に100個植えたクロッカスの球根は、今年もたくさん芽が出て来たよ〜
2ヶ月の間何も咲いていなかった庭に、今はヘレボールとユキノシタが白く咲いていて、もうすぐ黄色や紫が咲くと思うと春はすぐそこ…のような気にもなってしまいます。
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